昭和40年代の岩内
昭和44年、岩内の町史に初めて「原子力発電所」という記述があらわれます。「向かいの浜」(古い時代の方は岩内から見た泊方面をそう呼びました)の景色が、一変する直前の連続写真が、役場広報のネガに残されていました。
昭和48年(1973)、岩内港漁港修築記念碑が御崎の港敷地内に建立されました。
御崎の海岸通りの防波堤も、かさ上げ前はこんなに低かったんですね。昭和48年撮影。
明治40年(1907)年、日本で最初の町費による港の建設が始まり、第一期の工事が完了したのが明治43年(1910)。
ところが、想定外であった港内に流れ込む砂の浚渫(しゅんせつ・海底に体積した砂を除去)工事の発生、借金返済を見込んでいた鰊漁が衰退するなど、難題が次々とおこり、ここまで七〇年の港の歴史は、決して易しいものではありませんでした。
先人たちの挫けない岩内気質がここにも顕れています。数々の困難をのりこえ、岩内港は小樽に次ぐ西海岸の主要港として発展しました。
雷電刀掛岩PRには女性モデルも起用。
昭和30年代末より開発が進み、一躍有名観光地となった雷電温泉郷。
温泉ホテル前の海岸は、釣り客や海水浴客でにぎわいます。
展望台もありました。
自由に俳句を投稿できる「俳句ポスト」をはじめて設置したのは、町内宮園湯(公衆浴場)の武田みさ子さん。
古くからある文化意識の高さは、岩内の誇れる特徴ですが、それは子供たちにも受け継がれました。
昭和48年、第一回子供俳句大会が開かれました。
昭和49年度より、岩内・寿都・島牧・黒松内・共和・泊・神恵内の7ヶ町村をもって「岩内・寿都地方消防組合」が設置。岩内町に本部がおかれました。写真は、旧役場庁舎に隣接していた当時の消防署前に整列する署員。
岩内青年会議所の認証10周年を記念して、文芸春秋の文化講演会が開催されました。
直木賞作家 五木寛之氏、漫画家 おおば比呂司氏、評論家 河盛好蔵氏が、講演のため来町されています。
「岩宇中学校駅伝競走」のスタート地点。
岩内駅から、神恵内村までのコースでした。
交通安全パレード。国道、旧拓銀付近。
うきよ通り。
おもない公園付近の飲食店街。
昭和48年2月の新聞報道。
「岩内町長(長浜金太郎氏)が、原発計画の覚書凍結を北電に通達」。
昭和44年に町長が北電と取り交わしていた「覚書」。町民の理解が未だ得られていないため、凍結という判断をした。(昭48・5月議会だより)
昭和47年、岩内町議会では「建設反対」の決議がなされています。
子ども雪まつり。雪が少なく中止となった年もありましたが、昭和49年には第10回を数えています。
各地域の子ども会が参加、町中それぞれの広場や児童公園に雪像が作られました。
いつの時代も、子どもたちの屈託のない笑顔!
岩内っ子はとても素直。